みちのく古寺・神社
長谷寺

赤田の大仏さまで善男善女の信仰をあつめる
長谷寺(ちょうこくじ)
秋田県本荘市赤田字上田表115

曹洞宗  開山:是山泰覚

  本荘市の名所の由利橋を渡りさらに進むと、緑に囲まれた山麓に瓦ぶきの長谷寺の堂塔の一部が見えてきます。

  開山の是山泰覚は、荒廃した名刹光禅寺を再興し、病める人々に薬を施し、龍を使って慈雨を降らせるなど、数々の奇跡を実現し、藩主からも厚い帰依を受けていました。

  安永4年(1775)、是山44歳の時、霊地赤田の滝ノ沢に庵をむすび、滝沢山不動庵と称しました。長谷寺のはじまりでした。

  3年後、安永7年(1778)、本荘町の滝沢氏の寄進で丈六(約5m)の阿弥陀如来を造立し、同9年に御堂が完成して遷座落成式を執行しました。その儀式がのちに赤田大仏祭典となっています。

  天明4年(1784)、岩城家四代孝韶公から遺贈された奈良長谷寺の本尊と同木で彫刻した、小仏を胎蔵佛として、総高三丈(約9m)の長谷十一面観音の造立を発願し、2年後に完成しました。

  さらに寛政6年(1794)に、七間四面、高さ七丈(約21m)、二重屋根の大堂を建立しました。翌年、岩城隆恕から正法山長谷寺の額と寺領五十石を賜り、亀田藩の祈願所となりました。

  明治21年(1888)、客殿から出火し堂塔伽藍の総てを焼失しました。同25年(1892)に本荘の佐々木藤吉の寄進で観音が作られ、同34年(1901)には本堂が再建され、旧態に復しました。

  長谷寺には、県指定有形文化財の「法隆寺一切経」が所蔵されています。「一切経」は、平安後期の保安3年(1122)、法隆寺僧林幸の勧進によって書写されたものです。大治年間(1126〜30)に完成したことで「大治一切経」とも言われています。永久2年(1114)、法隆寺僧勝賢は、寺蔵されている神護景雲元年(767)の「行信願経」や、奈良平安以降の写経をも合わせ、一切経を結集しようと書写しましたが、不足分があるため林幸は再び計画して完成させました。

  当時流行した貴族の写経と異なり、庶民的性質をもっているのが特色とされています。


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長谷寺十一面観音像
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