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小説『北の河』(昭和40年)
高井有一(たかい ゆういち) 昭和7年(1932)〜
【作家紹介】
東京に生まれました。本名は田口哲郎。祖父は角館町出身の小説家だった田口掬汀(たぐちきくてい)。父は画家の田口省吾(しょうご)。昭和18年、祖父、父と相次いで亡くなります。
昭和20年5月、東京でのたび重なる空襲により、家屋家財一切を焼失し、哲郎は妹とともに母に連れられ父の遠縁を頼って角館に疎開します。旧制中学1年の時でした。11月末まで角館に滞在、この間母親が入水自殺し、その地の西覚寺に葬られます。
このことが後年、『北の河』の重い素材となります。戦争が終わったその年の初冬、母方の祖父に引き取られ、妹とともに東京に戻ります。
戦後は、早稲田大学英文科卒。昭和39年「犀」同人となり、その2号に『夏の日の影』を発表します。同人の立原正秋・加賀乙彦・後藤明正らの知遇を得ます。昭和40年、「犀」4号に載せた『北の河』で第54回芥川賞を受賞、以後も『浅い眠りの夜』(昭和41)・『少年たちの戦場』(昭和42)・『谷間の道』(昭和43)・『夜明けの土地』(昭和43)を立て続けに発表します。
昭和51年、祖父田口掬汀の生涯をテーマに『夢の碑』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。昭和58年、『この国の空』で谷崎潤一郎賞、平成元年『夜の蟻』で読売文学賞を受賞しました。高井有一にとって文学上の盟友でもあり先達でもあった立原については、『立原正秋』(平成3)の著書があります。
なお、高井有一の祖父田口掬汀について補足しておきます。明治・大正時代に、中央文壇に〈宙天掬銀時代〉を築いた一人です。〈宙〉は後藤宙外(ごとうちゅうがい)、〈天〉は小杉天外(こすぎてんがい)、〈掬〉は田口掬汀、〈銀〉は伊藤銀月(いとうぎんげつ)でいずれも秋田県出身の文士。角館生まれの佐藤義亮(新潮社創始者)と連携して大衆小説の一時代を画しました。掬汀は、明治30年代半ば『人の罪』が懸賞小説に当選したのを皮切りに、『新生涯』『女夫波』(めおとなみ)『伯爵夫人』など新聞小説の名手となり、泉鏡花・菊池幽芳の系列にあると言われています。川上音二郎一座の座付作者も買って出たことがありますが、大正時代『ふたおもて』『まごころ』を書いたあとは「中央美術」を創刊し、もっぱら美術評論や美術出版に力を注ぎます。
【作品紹介】
『北の河』を読むと、角館という町が読者の心に強く印象づけられることでしょう。立原正秋も昭和40年の春の終わりにこの作品に出会い、その3年後には実際に訪れていますが、立原の『心のふるさとをゆく』(昭和44)の「角館」の章から一部分を引用します。
「私は『北の河』の母の遺骸がひきあげられたのはどの辺だろうか、と町につくとすぐ宿に荷物をおいて外にでた。
そこは、檜木内川と玉川の合するところであった。そして、私の眼前に『北の河』に描写されている通りの風景が現れた。私は河を前にし、十四歳の少年が、たった六ヵ月間の角館での生活からどれほどの重さを背負って東京に戻ったかを、改めて知った。」
『北の河』は春から初冬に至る角館の心象風景を、無駄のない締まった文体によって印象深く焼きつけます。無論、現代の角館には観光的な別の風景があり、立原も見事に残る武家屋敷の家並みだの美人ぞろいの女子高校生だのお盆の郷土芸能「ささら行列」などを見ており、画家にして歌人平福穂庵・百穂親子を育んだ角館の温かい人情にも触れています。水は清冽にして豊富、地勢も小京都と併称される津和野よりもいっそう京都に似ている、と感じ取っています。
しかし、『北の河』の時代は敗戦真っ只中で、誰しもゆくえも知らぬ不安に襲われていました。それまでは「戦争は常に何処かで続けられているものであり、謂わばそれ自体が日常であって、戦争が終るという事は想像を超えていた」のでした。
疎開っ子には親しい友もそうやすやすとはできません。9月初旬には、同じく疎開していた河内という友が母親に連れられて東京に発って行きます。疎開者同士せっかく親しくなったばかりなのに、「私」と母は天蓋のない駅まで見送りに行くことになります。「お宅でも、もうそろそろお引揚げで御座いましょう」と屈託のない声を聞きながら、いっそうの寂寥感が募ります。
東京の家が焼夷弾に焼かれ全てを失った日の母の様子や、寡黙な母がいま河を眺めている後ろ姿を「私」が語ることによって、またその語りを糸口にして母の内心の葛藤がいかなるものかは読者に委ねられています。先行きの不安、ただ今の寂寥感、当面の冬を越す手立てについては語られていますが、それ以上の寥々とした母の心の奥底を行間に読み取らなければなりません。東京の母方の祖父からは共に暮らすことを拒否してくるし、東京に帰っても生活の手立ては皆無です。さしあたって角館での生活のために、母は「進駐軍」からの通訳の仕事を好条件で斡旋されますが、それも断ってしまいます。「私」とのちょっとした母子の諍いも「母の一語一語が私の気持に棘を植えて」行くようになり、ついに冬を目前にして母は河に身を投げてしまいます。
それから20年後にこの物語が書かれたのですが、立原正秋は「ひとつの体験が歳月を経て洗い流されたときに生じた作者の澄明な視線をみた」(「角館」)と述べています。
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