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当時の日本人として一大遠征を行った将軍
阿部比羅夫(あべの ひらふ)生・没年、生国ともに不詳
658〜662の軍役に活躍
阿部比羅夫は、日本書記によれば、658年、越国守(こしのくにのかみ)として、水軍を編成し、齶田(あぎた)、淳代(ぬしろ)の地へ遠征し、多数の蝦夷(えみし、古代アイヌまたは縄文文化生活者)を帰順させたとされています。<あぎた>は、現在の地名では秋田、<ぬしろ>が能代であることは間違いないようです。阿部比羅夫が、青史に名を遺し、光芒の煌めきをを見せるのは、わずか5年間のことです。660年には、軍団を率いて北海道南部まで遠征した形跡があります。そして、662年には、歴史上有名な白村江(はくすきのえ)の戦いで、朝鮮半島西部の海上にあって、指揮を執っていました。まさに東奔西走、当時の日本人として最も忙しく、短期間にこれだけの遠距離を移動した人物はいなかったに違いありません。
この時代の少し前、中央・大和では政治的な激震が走りました。すなわち、645年、天皇家・中臣(なかとみ・藤原)氏の連合により、蘇我氏から政権奪取を行った「大化の改新」です。これにより中央政権は、官制を整え威権をいままで支配の及ばなかった遠国まで届かせようとしたのでしょう。地方に対する中央政権=朝廷の勢力拡大の手段は、官位授与と所領安堵ですが、その根底には、<稲作の勧め>、コメづくりが大きく関わっていたものと思われます。140年ほど後の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の奥羽遠征でも、やはり事情は同じで、武力・軍勢を背景にした、稲作文化伝授キャンペーン軍の使命をもっていたようです。平野部に棲み、稲作によって大きな人口を養おうと考えた蝦夷の首領たちはこれを歓迎し、比羅夫の方も、齶田、淳代の蝦夷を招いて大いに饗応したとあります。しかし、海岸部で漁労・採集生活をしている集団にとっては<大きなお世話>であり、比羅夫の遠征でも激しい戦闘が行われたのです。
一方、朝鮮半島では、新羅・唐の圧迫により、百済は亡国に瀕していました。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に命じられ、百済救援のため比羅夫らは、27,000の兵と、400艘の船を率い、白村江で新羅・唐連合軍と闘いますが、味方の指揮系統混乱と敵の火術により、大半の船は炎上、壊滅的な敗北を喫します。阿部比羅夫は、一瞬、夏の夜空に開く大輪の花火のような姿をみせて、そのあとは歴史の謎の中に没してしまった人物です。
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