最後の帝国議会議員、実業家
斎藤憲三(さいとう けんぞう) 1898〜1970
東京生まれ 実家所在地の秋田県由利郡仁賀保町で幼少期を過ごす
斎藤憲三は、代々豪農にして政治家の血筋に生まれました。祖父は県会議員、父も官吏から転じて代議士になっています。憲三は、父・宇一郎が農商務省官吏として在京の折誕生しますが、祖父の死亡により父が家督相続するため、一家全員郷里の旧平沢町に引き揚げることになりました。
平沢小学校を卒業すると、大阪の私立桃山中学に進みます。あえて遠隔地に行ったのは、<中学校以降は親と同居すべきではない>という独立心を早くから養わせる宇一郎の教育方針からです。また大阪には宇一郎の実弟が住んでおり、桃山中学も、宇一郎夫妻の信仰するキリスト教・プロテスタント系の学校で、勉学に最適の環境と考えられたからです。
1915年、中学を終えると、早稲田大学高等予科に入学、さらに本科の商科(現・商学部)へと進みます。その時の同期生に秋田出身の東海林太郎がおり、生涯の友人として親交を深めることになるのです。1922年、早稲田を卒業した憲三は一旦帰郷し、独立の準備に入ります。父から独立資金として渡された大金・3000円を元手に、さまざまな事業を手がけて行きました。製炭、下駄材の集荷などを試み全て失敗、上京して郊外の武蔵野で養鶏を始めますが、これも行き詰まり、アンゴラ兎の飼育に切り換えます。ここで大きな転機が訪れたのです。この事業を通じて、鐘紡社長・津田信吾、発明家・加藤与五郎らの知遇を得、東京電気化学工業株式会社(略称東京電化、現・TDK)設立へと舞台は大きく廻ります。津田からは会社設立資金、加藤はフェライト(高周波回路用磁性材料)の工業化という好運に恵まれ、1935年、東京電化が誕生、戦後も録音テープ、ビデオテープなどを主力生産する大手企業に成長して行きます。
1942年、8回連続当選の宇一郎の地盤を受け継ぎ、翼賛体制協議会の推薦候補として、これが最後となる帝国議会総選挙に初出馬、見事当選を果たします。1946年、公職追放となりますが、1951年追放解除となり、2年後、自民党から衆議院に立候補、当選し、これを含め4回当選します。政治家としては、科学技術の振興を念願して科学技術庁(現・文部科学省)発足の中心となり、初代政務次官に就任しました。政治家・実業家として功績は大きく、安定した生涯であったというべきでしょう。
|