秋田の賢人・才人
東海林太郎
直立不動で歌った国民的歌手
東海林太郎(しょうじ たろう)1898〜1972
秋田県秋田市生まれ

 東海林太郎は、音楽芸術への情熱を終始保ちながら、その前半と後半において、全く違った人生を二度生きた人です。

 太郎は、秋田中学在学中の頃、ある程度バイオリンをマスターしていたほど音楽の才能がありました。音楽家を目指した太郎は、東京音楽学校(現・東京芸大)を受験、合格します。しかし、秋田県の役人から満鉄社員に転じた父親をもつ東海林家は、きわめてもの堅い家風であり、太郎の芸術志向を認めず、結局、早稲田大学商学部予科に入学することになりました。

 早稲田の本科、さらには研究科(現・大学院に相当)に進み、マルクス経済学者、佐野学(さのまなぶ)のゼミに在籍、思想的に大きな影響を受け、一時は学者を志したとされていますが、1923年、財界人、長崎英造の推薦で、父が勤める満鉄に入社します。満鉄(南満州鉄道株式会社)は、当時の超一流企業であり、芸術家・学者志望からエリートサラリーマンへの思い切った転換だったのです。師、佐野学も在籍していた調査部に配属された太郎は、調査論文「満州に於ける産業組合」を執筆、企業人としても有能であることを証明しますが、佐野ゼミ時代からの思想・信念により、関東軍の方針を批判、僻地の鉄嶺へ左遷され、退社します。ここから歌手として、第二の人生が始まるのです。

 音楽の世界という最初の夢を実現するにあたっては、本人が情熱を絶やさなかったことは勿論ですが、東京音楽学校卒の最初の妻・久子と、彼女の後輩で久子離婚後再婚した静、この音楽の素養の深い二人の存在も見逃せません。1933年、時事新報社主催・第二回音楽コンクールに入賞、プロへのスタートをきります。翌年、「赤城の子守唄」「国境の街」が大ヒットし、流行歌手の座を不動のものにしました。とくに「赤城の子守唄」は、新国劇で大当たりをとった「国定忠治」が背景にあり、さらに松竹で映画化された「浅太郎赤城の唄」の主題歌だったのですが、映画よりも主題歌の方が国民的人気を博したのです。東海林太郎といえば、燕尾服に直立不動の熱唱がトレードマークですが、日比谷公会堂の公演では、板割の浅太郎に扮し、子役時代の高峰秀子をオンブして歌うというサービスぶりでした。

 「一唱民楽」をモットーに歌一筋の後半生を貫いた東海林太郎は、晩年、歌謡界初の紫綬褒章、第七回レコード大賞特別賞など数々の栄誉を受けています。


東海林太郎(秋田県立博物館提供)

東海林太郎(秋田県立博物館提供)
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