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生きる不安・苦しみと闘いつづけた作家
太宰治(だざい おさむ) 本名・津島修治 1909〜1948
青森県北津軽郡金木村(現金木町)生まれ
作家は多かれ少なかれ“生”の不安と苦しみを基調としながら、その作品を書きつづけていくものだと言えるかも知れませんが、太宰治ほど徹底していた作家も珍しいといえましょう。彼は自己破壊の寸前まで生の不安と苦悩に取り組み、それを作品のモチーフに独自の文体をつくりだしたのでした。しかしその底には何かしら人間への祈りにも似た暖かさと優しさが漂っているところが、今でも多くの太宰ファンを持つ理由ではないでしょうか。
太宰の生涯を見て驚くのはその自殺行の多さです。北津軽の大地主であり、貴族院議員の経歴を持つ津軽家の十番目の末子として生まれた彼は青森中学時代作家を志しますが、プロレタリア運動が盛んなる中、大ブルジョアの子としての自己嫌悪から自殺を図っています。東京帝国大学に入ってからもカフェーの女給と心中未遂、24歳の時には都新聞の就職試験に落ち鎌倉の山中で首をくくりますが失敗。虫垂炎の手術でパビナール中毒に苦しみながらも創作集「晩年」を刊行、小説家として出発するのですが、28歳の時初恋の人と水上温泉で心中を図りますが失敗。彼は常に死と隣合せで生きながら作家としての道を進んでいったのでした。
太宰が最も安定し幸せで作家生活に専念できたのは、師事していた作家・井伏鱒二の紹介で結婚した30歳から戦争をはさんでの7・8年だけでした。「走れメロス」「右大臣実朝」「津軽」「お伽草紙」などを次々と発表し、戦後には“無頼派”を宣言して「斜陽」「ヴィヨンの妻」「人間失格」で一躍流行作家として時代のアイドルにまでなるのです。しかし仕事の依頼が多くなる中過労と飲酒で再び健康を損ね、またまた死の暗い影が襲ってくるのです。そして1948年(昭和23年)6月13日、「グッド・バイ」の草稿を残して山崎富栄と多摩川上水に身を投じ、その一生を終えるのです。この日は太宰39歳の誕生日でもありました。わざわざ誕生日を選んで自殺する・・・このことは太宰の生と文学を考えた時、あまりにも象徴的すぎるという気がしてなりません。
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太宰治(青森県近代文学館提供)
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金木町太宰治記念館「斜陽館」 |
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